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ハイヤー運転手は時に、一般人が簡単に出入りできない場所に入り込みます。
この仕事に従事するものだからこそなせる特権といってもいいかもしれません。
総理官邸もそのうちの一つと言ってよいでしょう。
ですから、この業界を知らない人に
「仕事で官邸に行ったんだ・・・」
などとちょっと自慢げに話そうものなら
「すごいですねー」
なんて言われたりして・・・
でも、これって自分の実力やコネなんかじゃないので言うだけ野暮なんです。
先輩に尋ねる
さて、この日、配車係りから指示書をもらって行き先を見ると「首相官邸」の四文字
車はセンチュリーです。
私の表情が一瞬変わったのを見て取った配車係が
「ここ、入ったことある?
もしなければ、知ってる人に訊いてくれる?」
朝の一番忙しい時間帯とあって、配車デスク前には出庫前の乗務員が群がっていると
行き先の説明をする余裕がないからです。
これはよくあること。
そういう時は営業内をぐるりと見渡してみれば必ず2,3人、そこの主(ぬし)、あるいは仕切り役みたいな経験豊富なベテランさんがいるもので、
そういう人たちは一見とっつきにくい感じがしますが、おそるおそる声をかけてみると
ハイヤーマンのサービス精神がうずくのか、まるで孫でもあやすように
「おお、どこに行くって?
総理官邸?
地図あるか 持ってきてみな・・・」
「はい。お願いします。」
「ここはな、 正面に向かってこの道から行くのと、こっちから坂を上っていくのとがあるんだけど、営業所からだと、この坂を上っていくといいな…
それで、この正面入り口の信号にかかる前にウインカーを早めに出しておく。
そうすれば門番の警備が早めにこっちの車に気づいてくれるから、スムーズにはいれるんだ。」
「はい」
「どれ、伝票見せてごらん、ああ、この人ね。俺も前に乗せて日銀に行ったな」
実に親切に教えていただきました。
首相官邸 車寄せ
溜池から「内閣府下」を左折、
坂を上ると、総理官邸前の信号が見えてきます。
先輩のアドバイス通り、左のウインカーを早めに出すと、警備の警官がこちらの動きを察して、信号が変わると同時に手押しでバリケード門を開けてくれました。
左折で中に入ると、すぐ左側が官邸敷地内への入口となっていて、車両のチェックがなされます。
通常事前に訪問者名および車番、車種、運転手名、連絡先などが登録されていますから
入口の守衛がリスト表と照らし合わせて確認がとれると門が自動で開きます。
その間に要した時間はものの1分程度
ボディチェックや、金属探知機をくぐるといったことをしないので
これでいいのかなあ・・・
と、余計な心配をしたりして・・
官邸内に入る
車を敷地内に入れると右側が官邸の建物、
その前は広い石畳の庭になっていて、
車を庭のへりに沿って大きくぐるりと時計周りに走らせながら
官邸前入口につけます。
すると入口正面に立っている係員が後部座席のドアを開けてくれ、訪問客を下ろした後、官邸内で待機する場合は、車を再び先ほど入った入口方面に向かって走らせながら
またグルっと旋回して、その庭に駐車するといった流れです。
どこかの商社ビルの地下駐車場と違って、いたってシンプル、絶対迷いません。
永田町のど真ん中にある広大な敷地、
そこに黒塗りの車がずらりと並んで駐車する光景をみれば
ーーここが日本の中心なんだなあ
といった実感がわきます。
総理現る
とその時でした。
数台の黒塗りの車が入口から勢いよく入ってきたのです。
車をみれば一目瞭然、総理車のおでましです。
数台のSPの車に先導されてきました。
切れの良い走りをみせながら官邸建物前につくと、関係者がどっと出迎える中、後部座席からあの良く見る姿が現れました。
おお、ここは正真正銘 日本の中心だ・・・
総理官邸西門
ちなみに、普段ハイヤーは正面入り口から入るのですが、内閣府の職員や搬入車は「西門」を利用していて、そちらから官邸内に入ることがあります。
同じように守衛を通るのですが、こちらは
一般の家屋でいうならば、勝手口のようなところ。
コンクリ―トで固められたまるで地下要塞のような無味乾燥な空間の中に入っていきます。
しかも
「車寄せ」として仕切られた場所はありません。正門とは対照的です。
のんきな運転手たち
さて、待機時間が1時間も過ぎると
あれ?
何人かの運転手が表に出る人がいます。
中には車の後部トランクを開け、官邸入口から直接見えないように死角をつくり
そこでもくもくと煙草をくゆらす人もいました。
官邸内では、国の仕事をする人たちが、頭を付き合わせて会議をしているだろうに
庭にいる我々は実にのんきなものです。
自分の家のようにほぼ毎日官邸内に出入りする人もいるわけで、慣れてしまうと感覚がマヒしてしまうのでしょうね。
だからといって今、官邸の中に入って自分に何ができるのか?
何もできない・・・
お呼びじゃない・・・
当然なことです。
上昇志向の強い20代、30代の人なら
こんな場に遭遇したら
くそー おれはここで何やってんだ?
同じ人間だぞ・・
などと、自分の不甲斐なさに焦りや怒りなど
複雑な心境を味わうかもしれませんが、
人生の黄昏50代、60代ともなれば、これから頑張ったってたかが知れてるし、人生いろいろ、できることをしっかりとやることが大切だ…
こういった悟りにも似た気持ちになって、ふっ~と吐いた煙草の煙の行先を見つめ
今月俺、走ってねえなあ
この仕事、往復10キロにもならない
待機時間もないし
ほとんど金にならんや・・
今月給料いくらになるんか
こんな場所にきても
心配なのは国のことより自分の懐
ついそろばんをはじいてしまう・・・。
でも、プロだし、所帯持ってるし・・・
先輩にお礼
営業所に戻ると
丁度先ほど指導を受けた先輩がいて、私と目が合うなり
「おい、どうだった? うまくいったか?」
と先に声をかけられました。
「はい、お陰様で、問題なく行ってきました。ご指導助かりました。ありがとうございました。」
「あのう…先輩、コーヒーお好きですか?」
「ええ? なんだよ、いいよ、気を使わなくても」
「でも・・・ ブラックですか?
ミルク砂糖入りでしょうか?」
「そうか・・・じゃあ ブラックで・・」
「はい、かしこまりました(ニコリ)」
最近ではほとんどの情報をネットで検索して調べることができますが、
あえて知っていても確認の意味で先輩や同僚に聞いてみると
意外な情報を得たりして、学ぶべき点が多いですね。